白砂青松について 2012/09/19
「海浜の白砂に松の林」、この景観は
私が子供の頃(60年位前)、海辺ではごく普通の景色であった。
しかし最近、この林にどんどん下草や雑木が生え始め、
松の木は下枝が枯れ落ち、痩せ細ってきているという。
そのため、松林を救おうというキャンペーンや、
雑木の整理や下草刈りを行っているところもあるそうだ。
確かに幼い頃から眺めてきた海岸の松林、
変わりゆく姿に何とかしたいという気持ちも良く分かる。
子供の頃、戦後の何もない時代、
松林は我々庶民の燃料基地であった。
夏が終わると海岸の松林に出かけ、
マツポックリや松葉を袋に詰め
2〜3キロある自宅までこつこつと運んだものである。
少し余裕のある人は、リヤカーに積んで運び、
仮設の小屋にしっかりと貯蔵していた。
これが秋から冬の焚き付けとなり、
私もマツポックリで麦入りの外米を炊いたものである。
そのため、この頃の松林の下は
正に砂だけで、綺麗なものであった。
早く行かないと近くの浜の松林は松葉さえなく、
かなり遠くまで行かないとマツポックリを拾えないこともあった。
でも中学の頃(1960年頃)には、
ソバくず(製材で出た切れっ端)が安く買えるようになり、
松葉は拾わなくなった。
さらに、高校の頃には炊飯器が普及し始め,
マツポックリも拾いに行かなくなった。
その後、大学へと故郷を離れたが、
帰郷の度に、
海岸や松林を自転車で散策するのが常だった。
私の育った秋田県能代市の海岸は、
江戸時代から防風・防砂林として黒松が植えられ、
さらに営林局の長年にわたる努力で
松林は海岸沿いを横に伸びて行くとともに、
次第に海へと近づいて行った。
高校時代には
江戸時代に植えられたと言う公園近くの松林を
散策するのが好きであった。
巨大な黒っぽい松がぽつんぽつんと斜めに天を指し、
その周りにはいろいろな樹木が生い茂り、
淡い木漏れ日が風にまたたき、鳥の声がいたるところから聞こえ、
遠くに潮騒の音が小さく聞こえる雑木林であった。
この林の細い道を稲荷神社まで
自転車でよく走ったものである。
そう、この古い松林は、かつても、今でも
松だけではなくいろいろな樹木が生い茂った、
小鳥の鳴き声が良く響く森である。
そこを越え、海岸への道をたどると
整然と植林された、
しかし海風で斜めにかしいで立つ、広大な松林が続き、
さらに海に近づくと人の背丈ほどの松がびっしりと生えていた。
その先はヨシズで区切った防砂区画に
ハマボウフウや浜昼顔が植えられていて、
さらにその先は砂の山で、
それを越すと海に出た。
最近、「風の松原」という、
広大な防風・防砂林の一画が
観光用に区画され有名になっている。
しかし、ここでも下草や雑木が生え始め、
名所が名所でなくなると問題になっているようだ。
少し前に「風の松原」を訪ねたことがある。
この辺では良くある整然とした黒松だけの林に、
公園ふうの散策道や休憩所、さらに掲示板が立っていた。
そこには長年にわたる防風・防砂の戦いの歴史が書かれている。
絶えず吹いている海風が松林をぬって届き、
かつて松葉やマツポックリを拾った松林がそこにあった。
ここを公園としたのは、防風・防砂の歴史の顕彰と、
かつて我々の生活を支えた松林を
当地の特徴として示したかったからであろうか。
松は生長しながら絶えず葉を落とす。
葉は腐朽分解し、
砂地は次第に有機質を含む土壌へと変化する。
すると、草や雑木が生え始め、
それらは大量の葉を落し、土壌はさらに豊かになる。
ますます雑木は大きくなり、日陰を作り、
松の下枝は枯れ、細いものは枯れてしまう。
松は他の植物が生長できない痩せ地でも生えるが、
一旦、土壌が豊かになると他の植物に負け、
次第に数を減らし、松林は雑木林へと変わって行く。
自然生態の多くの著書が指摘するように、
これは自然の摂理なのだ。
一方,稲荷神社への道がある江戸時代に植えた松林は、
枝の少ない古い大きな松がぽつんぽつんある雑木林で、
高校時代から50年経った今でも、
広葉樹は大きくなったが、相変わらずの雑木林であった。
しかし、以前よりも松や藪は少なくなり、空が広葉樹におおわれて
淡い光が点々と届く見通しのきく林になっていた。
以前と変わらず小鳥のさえずりや木漏れ日の林であり、
ゆったりとした、気持ちが落ち着く神社への道であった。
なぜこちらが観光名所にならないのだろうか。
日本なら何処にでもある風景であり、
この地の特徴を表す森ではないためであろうか。
自然の自然放置を良く荒れ放題になっていると人は言う。
そこでは草木が
その地の気象や立地に合わせて生命の消長を繰り返し、
時と共に変化して行く、正に自然なのだが。
整然とした美しい自然とは、
人間の介入によって作られた庭のようなものであり、
いわゆる自然と異なるのではなかろうか。
モンスーン地帯に属し雨が多い日本の場合、
放って置くといつの間にか草ぼうぼうの地となり、
貧栄養の土地では始めに松が生え始め、
落ち葉で土地が肥えると広葉樹も生えてきていわゆる藪になる。
宮脇昭(森林生態学者)氏によると、これを更に放置しておくと
広葉樹が大きくなり落ち葉で土地が豊かになるが、
日が射さなくなるため広葉樹の若木は育たなくなり、
陰樹が次第に生長して来るそうだ。
いわゆる原始林の極相に近づいて行くという。
陰樹は正に風土に依存し、盛岡周辺までは樅の木のようである。
国立公園内はこの循環が良く保存されていて、
八幡平頂上一帯は青森トド松(オオシラビソ)の極相であり、
少し山を下がると200〜300年経ったブナの巨木が天を指して広がっている。
自然を相手にした場合、人間の生命は短く、
なかなかその像を捉えることができない。
自然を作る雄大な時間の積み重ねを思うと
自己の卑小さを感ぜずにはおられない。
でも齢60を過ぎると、
自然に対しては短いものの、いくつかの現象を見ることができ、
自然について学び、少しは理解できるようになったと思う。
私が見た現象を紹介しよう。
私が居住している団地の入口付近の高台に
県営の4階建てアパート群が立っている。
その高台は南と東が大きな法面となっている。
良く見える南面は頻度高く綺麗に草が刈られ、
芝地のような法面になっていた。
切り通しになっている東面は放置され、
いつの間にか藪となった。
10年ぐらい経った頃であろうか、
絶えず手を入れ、長期間草を短く刈っていた法面は、
栄養不足の土壌になったとみえ
草も透けて地面が薄く見えるようになっていたが
少し雨が多量に降った時、崩れてしまった。
あのやせ細った草では法面を保持できなかったようだ。
一方、東斜面は藪となり、雨で崩れるようなことはなかった。
崩れた法面は、コンクリート組に石を入れ補修され、
日が良く当たる南面なのに殺風景な景色となった。
草刈りはなぜ行われているのだろう。
藪そして雑木林がなぜだめなのだろうか。
市や県には緑地保全課なるものがあり、
絶えず街路樹や街に面した河川敷、公園などの世話をしている。
アパートは公営であり、この保全課が行っているようだ。
市の行政はいわゆる専門職よりも一般職、行政職の方が多く、
保全課の職員もそのようである。
専門的な見地からと言うよりは
見栄え良く庭を作る感覚で行っているのではなかろうか。
自然との関わりは、緑地保全や庭作りの感覚ではなく、
環境保全の考えが必要だと思うのだが。
ほぼ同様のアパート群が
我が家の近くの高台にも立っている。
その法面はかなり広く、扱いにより3区間に分けられる。
最も急斜面で法面が長い1/3は全くの放任地で
ススキや雑木がいつの間にかびっしりと生え、
次の1/3は自然に生えた松を残して草を刈る方がいて、
残りの1/3はかなり綺麗に草が刈られていたが、
後に刈り払いが少なくなり、木は残すようになった法面である。
今の所、いずれの法面も雨で崩れて来てはいない。
放任斜面は、30年経った今では雑木林となり、
さらに森となり、良く小鳥が鳴いている。
そう、ここは「小鳥沢」という地名であった。
団地に入居して約30年、
「30年経つと森になるんだなー」とつくづく思った次第である。
次の1/3は点々とあった木が大きな立派な木となり、
下は短い草地で裾の部分には花壇が作られている。
毎日のように花壇や法面の手入れをしている近所の方がいる。
良くカラスが松の木に来て鳴いているのを見かける。
後に木を残すようになった余り長くないが横に広い傾斜地は、
刈り払いも少なくなり、所々の松の木が大きくなり、
一部ではタラの木が小さな林を作り、ススキが繁茂している。
今でも年に1度くらい草刈りをしている。
アパートは公営であり、草刈りは市がやっているようだ。
これらの斜面の内どの斜面が好きかと聞かれたら、
私は放任され森になった斜面が好きである。
よく手入れされガーデンのようになった斜面を
人は綺麗な斜面と言うかも知れない。
これは庭造りが好きな近所の方達の努力によるもので、
この関わりが継続することにより成り立っている。
かつて山に面した村は山とともに生活していた。
私も山里で生まれ幼少期(小学5年生まで)をそこで過ごした。
自宅の裏山や入会地の山は、
燃料、家の補修材、家畜飼料、山菜、きのこ、山の果実など、
生活を支える山であった。
この里山は子供にとっては遊び場であり、
何時何処でどんな花が咲き、山菜、きのこ、山の果実が採れるか、
60年経った今でも鮮明に覚えている。
さらにその奥は、
子供が1日で行って帰って来ることができない森であり、
大人と一緒でないと入ってはいけないところであった。
その里山と森との境当たりに炭焼き小屋があり、
何回か遊びに行ったことがある。
近頃は、里山が荒れ、
熊が山里に現れるようになったと言われている。
最近、幼少期を過ごした村を訪ねた。
かつて茅葺きだった家はもう無く、
町とあまり変わらない家が建っていた。
この家だと補修に山からの茅とか森の間伐材などは必要ないし、
また、馬などの家畜も居ないので,
かつての茅場や草刈り場はもう雑木林になっているだろう。
里山が無くなったからなのか、
それとも高学歴社会になり勉学に忙しいのか、
子供が外で遊んでいるのをあまり見かけなかった。
遊びは町と同じでTVやゲームで家の中なのかも知れない。
確かに普通に暮らしている村でも
里山は消えつつあるのかも知れない。
ましてや過疎の村では、
耕作放棄地が草地から雑木林となり、
村自体が森に帰りつつあるように見える。
子供が入ってはいけない森が、家の前まで迫っている。
子供の数も減少し、
学校は統合され、スクールバスでの登下校となり、
山里にいながら山と触れることが少なく、
何処にいても同じような幼少期を送ることになっているのだろうか。
マスメディアの発達により文化の均一化が起こっているのかも知れない。
そう、この小論は「白砂青松」であった。
白砂青松の継続には、貧栄養地でも何とか育つ松が、
自分の落ち葉でその土地を富栄養化させ無い条件が揃う必要がある。
それには、いつも強い風が吹き、落ち葉が飛ばされる地であるとか、
かつてのように落ち葉やマツポックリが
人間に利用され片づけられているとか、
あるいはもっと人為的に
保全のため清掃作業が継続的に行われているとかであろう。
いわゆるいろいろなガーデンや日本庭園も
不断の庭師達の労働と努力によって維持されているのであり、
モンスーン地帯の日本では放って置くと藪となり雑木林となり、
やがて森になってしまう。
かつての里山は、ガーデンのように庭目的で作られたものではないが、
その時代の人々の暮らしによって作られた共同ガーデンであった。
このガーデンは人々の生活によって支えられてきたが、
生活が変わると里山は維持できなくなり、
自然の森へと帰ることになる。
これは自然の摂理であり、正に豊かな自然だからである。
次回は
自然の中で、いかに自然の摂理に合わせて快適に生活するか考えてみたい。
ご意見は**tomon@iwate-u.ac.jp**まで