寒冷バイオシステム研究センター
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"評価"をめぐって

          岩手大学大学院連合農学研究科 研究科長 江尻愼一郎

 "評価"の字義は公平に価値判断を述べる意であろう。"天秤"は、基準としての重りとのバランスにより重さを求める。有森祐子さんは"自分をほめてやりたい"と自己評価 したが、物理量やスポーツなど勝ち負けがはっきりしているものは計測・評価しやすいが、芸術・学問・研究等の評価は如何なものか。
 朝日新聞に日曜俳壇や歌壇があるが、3人の選者の評価はまちまちである。10句のうち、3人が共通して選ぶものは皆無に近い。2人が選ぶものも1句か2句である。 これほど左様に評価は難しい。俳句など評価しやすいと思われるものでもこのような有様である。ましてや、複雑な思考過程や実験の計画や結果をそうたやすく評価できる ものではなかろう。
 大勢で評価すれば客観的な評価は可能であろうが、それは平均値でしかない。平均値で評価して評価されないものは、(その時点で)相対的に価値の低いものか、天才的 な技の産物で、凡人には評価できないものであろう。天才は我々の周りにはめったにいるものではないので、判断を誤るリスクは少ないとは言える。天才はどのような状況 に置かれても能力を発揮するであろうから、放っておいてもよいかも知れない。しかし、大江光君のように、天才的な能力をもっていても、その能力を見抜く天才がそばに いなければ、彼の能力は眠ったままであったろう思われ、まさに、奇跡を見る思いである。
 萌芽時の独創的な研究も、万人の評価に耐えうる性質のものではなかろう。評価のためには、冒頭にもどるが、基準となる分銅が必要である。基準に照らして重いとか、 軽いとかの云々で、真に新しいものは生まれまい。外部の評価を待つまでもなく、自分が積み上げてきたものを、否定しながら進むのが創造的な過程であろう。プリンスト ン大学では、"実験結果の評価などしません"、"発表の義務なども課しません"、"好きなことを思う存分やって下さい"と言うそうである。まあ、始めから天才的な人のみを 集ようとしているのだから例に出しても仕方がないかも知れない。
 大学評価機関が行おうとしている評価は、独創的なものを評価しようとしているのであろうか?それとも、平均値を評価しようとしているのであろうか。裾野を切り捨て るために評価性を導入しようとしているのであればあまり学問の進歩には結びつかないであろう。逆に、独創的なものの評価にも前述のように限界がある。次善の策、ある いは取りうる策は、可能性がありそうなものはサポートすることであろう。2〜3年での評価などと言わず、10年くらいはやらせてみることである。それで平均値に達し ないものはどんどんはずしてもよかろう。無駄とも見える試行の中から100に1つも真に独創的なものが生まれれば、学問レベルは大きく進展するし、投資したものも回 収できよう。
 わが国にベンチャービジネスが育たないのも、相対的な評価を気にし過ぎる社会風土のせいであろう。新しい芽を育てるどころか、あれこれ批評して折角芽生えた貴重な 可能性を摘み取ってしまう。平均的レベルを上げる教育により、わが国は西欧に伍すまでになったことは確かであろうが、ここまでこれたのも西欧の数百年にわたる学問の 蓄積によるところが大きいのではなかろうか。西欧も、そのストックや新しい情報をたやすくは我々に手渡してくれなくなった。新世紀における真の学問の創出に向けて、 新しい評価システムの確立を願って止まない。 

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