宮澤賢治関係資料

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 宮沢賢治は大正4−9年の間、岩手大学農学部の前身盛岡高等農林学校農学科第二部(後の農芸化学科)本科生および研究生として在籍しました。色白で、人を引きつける独特の笑顔のまじめな学生で、成績良く、級長、特待生、旗手などを務めました。また、仏教に関心を持ち、短歌などもよくし、文芸同好会(アザリア会)や校友会での活躍を通し、友らとの親交を深め、さらに山野を跋渉しては自然との交感も重ねる学生でした。学業では、地質、土壌学などに興味を持ち、その道の権威、関豊太郎教授指導で同級生らと「盛岡付近地質調査報告」をまとめると共に、教授のゼミに参加し、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」を残しました。卒業後、研究生として恩師に協力し「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」の作成に参加しました。この良き師との出会いや数回にわたる土性調査は、賢治自身の古里稗貫郡の農業環境を良く知る機会となり、それが後に地元農学校教師や農業指導実践の場であった羅須地人協会での肥料設計などを支える基礎となりました。また師の石灰岩床による酸性土壌改良や、冷害克服にかけた願いも、得業論文や土性調査をとおして賢治の願いともなりました。しかし実践半ばで倒れ、その果たせなかった願いや夢は、作品「グスコーブドリの伝記」や数々の童話や詩に託されました。
 賢治在学時代の地質調査用具、岩石標本作製用器材、賢治が採取した岩石、
 賢治が作った顕微鏡用岩石薄片、その当時使われた教材、学生時代の写真、
 盛岡付近地質調査報告書、交友会報抜粋、アザリア、得業(卒業)論文、    
 関先生への手紙、関先生の追想文など             → 第四展示室

 

大正7年卒業時の宮澤賢治
(同級生アルバムより)
   「腐植質中ノ無機成分ノ
植物二対スル価値」




宮澤賢治の得業(卒業)論文
     

 同人誌「アザリア」は
賢治と小菅健吉、保坂嘉内、河本義行が中心となり
大正6年7月1日第1号を出した。
前列左から、小菅、河本、後列左保坂と賢治
   
関 豊太郎  先生

農学科第二部教授
東京都出身
(在任:明治38年〜大正9年)
地質、土壌学担当


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